熱帯スイレン

品種改良の歴史


 18世紀以前 〜改良前の時代〜

 スイレンは、古くから人々に愛されてきました。古代エジプトでは、太陽の象徴として大切にされ、アジアでは、仏教文化においてハスとともに重要な花とされました。

 ヨーロッパにおけるスイレンの栽培は、18世紀に北アメリカ原産の耐寒性スイレン、オドラータ ( Nymphaea odorata ) が導入された頃に始まりました。しかし、当時は栽培するのみで、育種は行なわれませんでした。

 19世紀 〜ヨーロッパにおける育種〜

 1801年に熱帯性スイレン‘ルブラ・ロゼア’(夜開性)の記録がありますが、これは原種またはその変種と思われます。
 1850年には、熱帯性スイレンで初めての交配種‘デボンジャー’が発表されました。これはロツス ( Nymphaea lotus ) とルブラ ( N. rubra ) の交配種で、夜開性、赤花の品種でした。その後しばらく、熱帯性スイレンの育種は進みませんでした。
 一方、1880〜1900年にフランスのマルリアックによって、耐寒性スイレンの新品種が次々と発表されました。それまでヨーロッパになかった、赤、桃、黄などの新しい花色は人々を驚かせました。これらは’マルリアケア’と呼ばれる品種群で、今でも栽培されています。中でも‘アトラクション’などは、現在でも人気の高い品種です。

 20世紀 〜熱帯スイレンの品種改良時代〜

 20世紀に入ると、育種の中心はヨーロッパからアメリカに移りました。
 20世紀前半には、ランディグ(M.E.Randig)やプリング(G.H.Pring)、トリッカー(W.Tricker)らが活躍し、数多くの新品種が発表されました。
 20世紀後半も育種の中心はアメリカで、多くの育種家が100以上の品種を発表しています。

 日本でのスイレンの歴史

 古くから中国や日本では、日本にも自生するヒツジグサ ( N. tetragona ) が栽培、観賞されていましたが、品種改良はされませんでした。
 明治後半から園芸品種(主に耐寒性スイレン)が輸入されはじめました。
 大正に入るとマルリアック系(耐寒性)の品種も導入され、国内での育種も始まりました。当時の園芸ブームに乗って盛んに栽培され、同好会ができるほどでした。
 昭和初期には切花にも利用されましたが、戦争によってほとんどの品種が失われました。
 戦後、海外から多くの園芸品種が導入されましたが、国内での育種はほとんど行なわれていません。

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